雅子さま

苦しむ雅子さまへ宛てた、愛子さま4歳のお手紙 「ママへ きょうは、なにがたのしかったですか」

華やかな外交デビューを果たした新皇后雅子さま

令和時代の新皇后となった雅子さまは、立て続けに大きなご公務に臨まれている。

特に、世間やメディアの注目を集めたのは、トランプ大統領夫妻との会見である。洗礼された所作と流暢な英語でコミュニケーションを取られるお姿は国内外のメディアから絶賛を浴びた。

その後に続いた、G20の日程に合わせて来日された各国要人との会見でも、優れた語学力と素晴らしいおもてなしの所作が絶賛されることとなった。

令和の新時代に皇后陛下として華やかな外交デビューをされた雅子さまであるが、このような皇室外交を担っていくことは、雅子さまが皇室入りされて以来の念願でもあったのだ。




強く望んだ皇室外交

雅子さまが皇太子(現天皇陛下)のお妃候補として浮上したのは一九八八年。ハーバード大学を卒業し、東大にも入学した雅子さまは、八六年に雇用機会均等法が施行された翌年、「均等法世代」の初の女性外交官として外務省に入省された。

ある皇室記者は、当時の様子を振り返りながら次のように語る。

「輝かしい経歴を経て外交官となられた雅子さまの才色兼備ぶりは世間からの注目を集め、まさにキャリアウーマンの象徴ともいえる存在でした。

男女が性別の差別なく活躍できる社会という希望を胸に社会に出た均等法第一世代の女性の多くは、大きな変化もなく、いまだ閉鎖的であった男性社会の現実に失望する者も少なくありませんでした。

しかし、そのようななかなか変わらない社会のなかで、光り輝く雅子さまの存在は、多くの女性にとっての希望となっていました」(皇室記者)

そんな雅子さまが外務省を辞め、皇室入りされたさいには大きな驚きが起こったようだ。

「まさに天職ともいえる外務省の仕事を雅子さまは“一生の仕事”と捉えていたようです。

そんな雅子さまですから、皇室入りされた際にも、ご自身のキャリアや能力を皇室でも生かしたいと強く願っており、特に皇室外交へかける想いは並々ならぬものがありました」(前出の皇室記者)

しかし、その後に雅子さまを待ち受けていた運命はまさに過酷な現実であった。

公務よりもお世継ぎを

皇室入りされてからの雅子さまは、外交の機会は中々与えられずとも、それでも自分自身の能力を可能な限り生かそうと真剣に思い悩んでいたようだ。

しかし、そんな雅子さまに、期待されたのは「公務」ではなく「お世継ぎ」であった。お子様に恵まれなかった当時の皇太子ご夫妻であったが、東宮職も公務軽減がお子さま誕生に繋がると信じ、公務を制限していった。

先の皇室記者はまた当時の様子を次のようにも語った。

「雅子さまのような非常に優れた能力をお持ちの女性を、自立した一個の人格としてではなく、皇太子さまの付属物ででもあるかのごとく、お世継ぎの役割ばかりを期待する日本の皇室やマスコミ報道のあり方は欧米のメディアからは非常に奇妙に映ったようです。

ある海外の新聞などは、公務を制限し、皇室内でお世継ぎの期待ばかりをかけられる様子を皮肉り、「マサコは篭の鳥」というタイトルで報道するものまでありました」




愛子さまへ注がれた愛情

不妊治療と流産を乗り越え、2001年12月に愛子さまが誕生されたが、その後も困難の連続であった。

2003年6月には、当時の宮内庁長官が定例会見で『やはりもう一人は欲しい』『多くの国民もそう考えているのではないか』と発言。

「ご出産後の初会見で、涙を浮かべられながら“生まれてきてくれて有難うという気持ちになって”と語られていた雅子さまにとって、愛子さまの存在までも否定するかのような宮内庁長官の発言には深く傷つかれたことでしょう(前出の皇室記者)

この時、雅子さまは、たとえ望まれない性別であったとしても、愛子さまへ何倍もの愛情を注いで育てられることを決意したという。

4歳だった愛子さまが雅子さまへ送られた手紙

その後、2004年には、雅子さまは医師から適応障害と診断される。

適応障害との診断が下される以前から、体調の異変を訴えていた雅子さまであったが、当時、精神病に関する理解の乏しかったために、マスコミはおろか宮内庁の医師さえも、「わがまま」「仮病」とみなすことがあったようだ。

病の苦しみに加え、メディアや国民からの心無い批判、周囲の無理解と、様々な要因が重なりその全てが雅子さまを深く傷つけたことは想像に難くない。

しかし、そんな雅子さまにも癒される瞬間はあった。

天皇家のご一家についても良く知る、ある宮内庁関係者は適応障害の診断がなされた翌年の2005年にあったエピソードについて語ってくれた。

「これは、愛子さまが4歳の時のエピソードなのですが、当時“お手紙ごっこ”という遊びをおこなっていた愛子さまが病気に苦しむ雅子さまへ送られた手紙にこんな一言が書かれていたのです」(宮内庁関係者)

“ママへ きょうは、なにがたのしかったですか”

文章には花に止まった涙を流すミツバチの絵が添えられていたという。

「2005年は皇太子ご一家、特に雅子さまに対するバッシングが加速した時期でありおそらく雅子さまが一番体調が悪い時だったのでしょう。楽しかったはずがありません。

それでも、苦しそうな雅子さまへ

“ママ、たった一つだけでも今日は楽しいことはありましたか?”

と幼かった愛子さまは、そのように気遣われたのです」(前出の宮内庁関係者)

当時、苦しい想いをしていたのは実は雅子さまだけではない。当時の宮内庁は、雅子さまの希望に反して、泊りがけの公務を増やしていった。

最も愛情を必要としていた時期に愛子さまは、母親から引き離されて育ったことになる。母親と一緒にいて甘えたかった時期に、泊りがけの公務により引き離され、なおかつ、病に苦しむ雅子さまの姿を間近でみていた愛子さまの悲しみは想像して余りある。

そんな中、大変深い悲しみや寂しさを感じていたであろう愛子さまは、ご自身の辛さを訴えるどころか、母親である雅子さまを気遣われたのです。

手紙を受け取った雅子さまは、愛子さまをそっと抱き寄せましたが、その時に、誰よりも愛子さまへ愛情を注いで育てていこうと、あらためて決意したのかもしれません」

天皇皇后両陛下と愛子さまとの愛情

天皇皇后両陛下の結婚の際に、陛下は「僕が一生全力でお守りします」と雅子さまへプロポーズの言葉を送り、まさにその言葉通り、様々な困難から全力で雅子さまを守り抜いてきた。

そして、陛下に守られてきた雅子さまもまた、愛子さまに大変な愛情を注ぎ、全力で守り抜いてきたのかもしれない。

現在の天皇皇后両陛下と雅子さまの輝くような笑顔も、この一家三人の間の愛情がなければ決して見ることは叶わなかっただろう。

(編集部)

https://kikunomon.news/article/5503

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